宝満寺跡

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県指定文化財 史跡 宝満寺跡(ほうまんじあと) (昭和42年3月31日指定)

「宝満寺跡」は明治2年(1869年)、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となった「律宗秘山密教院宝満寺(りっしゅうひざんみっきょういんほうまんじ)」の遺跡である。

宝満寺は、聖武(しょうむ)天皇の御世(みよ)、神亀(じんき)年間(724〜729)に、皇国(こうこく)鎮護(ちんご)のため勅願寺(ちょくがんじ)として創建されたと伝えられる。

正和(しょうわ)5年(1316年)、鎌倉執権(しっけん)北条(ほうじょう)高時(たかとき)のとき、鎌倉極楽寺開山 忍性(にんしょう)の弟子、信仙(しんせん)上人(しょうにん)英基(えいき)和尚(おしょう)が院宣(いんぜん)により勅願所として再興し、信仙を中興開山と称した。

再興より4年後の元應(げんおう)2年(1320年)に、本尊(ほんぞん)の如意(にょい)輪(りん)観音(かんのん)が本山奈良西大寺(さいだいじ)から下向され、本堂に安置された。観音蓮台(れんだい)の下に「元應二年庚申九月十九日造功畢 南都於西大寺開眼、願主 光信 左衛門入道 長教」と記されていた。

その後、元亨(げんこう)年中(1321〜1324)に執権高時が、寺領下知の教書を下している。また、北朝第1代光明院の綸旨(りんし)を当国守護に下し、厳しく乱妨(らんぼう)を禁制し、また将軍家からもその令が下されたとある。興国(こうこく)元年(1340年)、足利(あしかが)直(ただ)義(よし)は院宣を奉じ、一国一塔の塔婆(とうば)を建立、また仏舎利(ぶっしゃり)2粒を奉納した。

当寺の住持(じゅうじ)は、昔から上京院参(いんざん)の寺格であったが火災によって中断し、万治(まんじ)2年(1659年)、再び院宣を受け、更に安永(あんえい)7年(1778年)、後(ご)桃園(ももぞの)天皇(てんのう)の勅許(ちょっきょ)により参内(さんだい)し、以後、参内・院参の寺格となり、焼香も禁廷(きんてい)(宮中(きゅうちゅう))の香華所(こうげじょ)である泉湧寺(せんゆうじ)と同じく勅許されたと伝えられる。

本尊に対する信仰は非常に厚く、安産守護として霊験(れいげん)あらたかで、日向・大隅・薩摩の人々に厚く信仰されており、安産の護符(ごふ)も発行されていた。 また花嫁を馬の背に、花婿が手綱(たづな)をとるシャンシャン馬の参詣(さんけい)風物は、宝満寺がはじまりとされている。

坊津(ぼうのつ)一乗院(いちじょういん)と並び、『西海(さいかい)の華(はな)』と呼ばれた美しい伽藍(がらん)の宝満寺は、廃仏棄釈により、華麗な堂宇(どうう)や一切の什宝(じゅうほう)・記録等が失われましたが、旧敷地跡に庭園・下馬(げば)札(さつ)・隈(くま)田原(たばら)兄弟(きょうだい)仁王像(におうぞう)・歴代住職墓地等を残し、岩窟(がんくつ)や背後の自然林と調和して、往時の様子を偲(しの)ばせてくれます。

 
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所在地

  • 志布志市志布志町帖6537番地
    宝満寺跡 - 地図

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最終更新日時: 2014-11-27 (木) 21:20:45 (1664d)